ワインバーグ自伝「The First Nuclear Era」について


原著、1994年。本文281頁。約30ドル

American Institute of Physics出版
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中国語の翻訳版「第一核紀元」

1996年出版


The First Nuclear EraThe Life and Times of a Technological Fixer」は、米国オークリッジ国立研究所(ORNL)の所長を永年勤めたAlvin M. Weinberg博士の自伝です。

ワインバーグは1915年にシカゴで生まれ、マンハッタン計画に参加した後、1948年にORNL研究担当理事に、1955年にはORNL所長に就任し、1973年に退職しました。彼の歴史は、原爆と原発の開発の歴史そのものです。

彼は、現在、世界の原発の大半を占める軽水炉の発明者です。このことは、日本では殆ど知られていません。米国でも彼が自伝を出すまで、知る人は少なかったようです。

軽水炉の発明者でありながら、軽水炉の問題点として、下記2点を指摘していました。

@生成されるプルトニウムが原爆に使用される危険性があり、原発を「悪魔との取引」と定義した。

A当初から軽水炉の危険性を指摘し、1958年出版の教科書「Physical Theory of Neutron Chain Reactors」で「軽水炉で冷却が出来ないと、燃料が破損し、プラント全体が放射能汚染され、修復は極めて困難になる」と正に福島原発事故を予言していました。

これらを解決する技術として、ORNLにおける熔融塩炉開発を所長として主導しました。
しかし、軽水炉に対する批判を続けたため、1973年に解任されてしまいます。

彼の科学者としての最大の貢献は「世の中には科学に問うことができるが、科学では答えることが出来ない問題がある」として、原発事故確率や微量放射能影響などを例示し「トランス・サイエンス」という概念を発明したことです(後述)。

以下は、原著の目次:

プロローグ。

1.Robert Hutchin学長のシカゴ大学、Nicolas Rashevsky教授とCarl Eckart教授

2.冶金学研究所と、Eugene Wigner博士のハンフォード原爆用Pu生産施設

3.クリントン研究所:人類が最初に大量の放射能を生み出した場所

4.研究用原子炉:ORNLの科学中心

5.航空機推進用原子炉

6.液体燃料による増殖発電炉

7.経済性に優れた原子炉はここにあるか?

8.海水脱塩による淡水生産と、他の科学的解決

9.国際的な高揚

10.原子力の現実:悪魔との取引

11.ポトマック川のSmolny研究所

12.エネルギー問題を考える

13.科学思想(トランスサイエンスほか)

14.原爆(ヒロシマの神聖化)

15.我々はもっとうまくやれたか?

ヒロシマの神聖化 (ワインバーグ自伝より)
ワインバーグ博士と古川和男博士1996


ワインバーグ博士は、ORNLが原爆開発に参加し、広島・長崎に原爆が投下されたことを永年、気にかけていました。1991年に来日し、広島・長崎を訪問しています。
彼の自伝に「ヒロシマの神聖化(The Sanctification of Hiroshima)」という1節があり、そのことに関する彼の考えを述べています。その日本語訳を下記に紹介しておきます。(2014年8月記、原爆の日を前に)


 もし世界が永遠に平和だとしたら、手の込んだこの防衛システムはすべて必要なくなるでしょう。フランスとイギリスは水爆を多数保有していますが、アメリカから脅威と見なされたことはありません。イマヌエル・カントは1795年に発表した『永遠平和のために』の中で、永遠に平和な世界の構想を示しています。もし世界に、私達が今日、民主主義国家と呼ぶような国しかなかったら、平和があまねく広がる、とカントは考えました。そして実際、1850年以降、民主主義国家の間では戦争が起こっていないということを、政治学者は指摘しています。

 これには内戦は含まれませんし、宗教戦争も含まれていないようです。ユーゴスラビアでは宗教・人種が原因となって紛争が起きましたが、今述べたように、確かに民主主義国家同士が互いに戦ったわけではありません。(民主主義が広まっていたチェコスロバキアが平穏に2つの国に分かれたことは、民主主義の伝統を持たなかったユーゴスラビアの混乱と対照的です。)

 カントのいう、民主主義国家が互いに相手を尊重し合う状態へと、何もしないでも世界が変わって行く―つまり、永遠の平和が手の届くものになると考える―のは、現実的とは言えません。しかし、核兵器を使用しないという目標は、永遠の平和よりはずっと成し遂げやすいでしょう。
 
 第二次世界大戦後のこの50年間、核兵器は一度も使用されていない、とトム・シェリングは指摘しています。最悪の危機といえる1962年のキューバでも、私達が恐れていたほどは、核兵器が使用される瀬戸際まで行っていなかったのです。私達はこの間に「核兵器を使用しないという伝統」を徐々に築いてきました。 <BR> この伝統については、マクジョージ・バンディのすばらしい著作『危険と生存』に記されています。この伝統を徐々により強固なものにしていけば、核兵器の発明をなかったことにはできなくても、再び使用されないようにすることはできるでしょうか?これこそ正に、私のようにかって核兵器開発に関わった者の願いです。(訳注:バンディは1960年代に米国大統領補佐官を務めた政治学者)

 しかし、百年、5百年、あるいは1万年といった長い目で将来を考える時、核兵器の発明をなかったことにできないのなら、「使用しないという伝統」をより強固なものにしていく手段などあるのでしょうか?

 私は数年前に「ヒロシマは正当化されるのか?」という長年の疑問に取り組んでいて、一つの可能性に思い至りました。(この疑問は私の頭にこびりついて離れたことはありませんし、核兵器を開発した他の多くの人々もそうではないかと思います。)ヒロシマによって戦争が終結したのだから正当化される、という単純な見方を私は常にしてきました。ガー・アルペロビッツのような歴史修正主義者が言う、さらに死傷者が増えなくても戦争はいずれにせよ終わっていた、という意見には、納得していませんでした。(ですから私は、マクジョージ・バンディが『危険と生存』の中でこうした修正主義を論破しているのを歓迎したものです。)しかし、レオ・シラードが核兵器について、最も初期には次のように主張していることに思い至りました。ヒロシマのような現実の惨禍だけが、世界―政治家、軍人、一般市民―に、新しい時代が幕を開けたのだと理解させられるというのです。実験や戦場以外での実演では無理なのだと。(訳注:シラードは、アインシュタインと共にルーズベルト大統領に原爆開発を提案した物理学者で、上記のように、当初は実戦での使用が必須としていたが、後に日本への原爆投下を阻止する運動を始めた。)

 一方、8月6日、広島の原爆記念日は、毎年、デモ行進や徹夜の祈りであふれ、注目されるようになっていました。年々デモは大きなものになり、ある意味では宗教的な性格を帯びたようでした。放射線影響研究所(以前の原爆傷害調査委員会)を訪問中に、広島平和記念公園で実際に爆心地に立った時、私の疑問は確信に変わりました。ちょうど日本の神社に奉納されたかのような折り紙の鶴と、ヒロシマの梵鐘(伝統的な鐘)、平和記念公園を訪れた人々が鳴らす梵鐘の厳粛な響き、連れてこられた子供たちでさえ静かにふるまっている様子に。(訳注:筆者ワインバーグは1991年に広島・長崎を訪問している。)

 ;私は、ヒロシマが神聖化されたことを目撃したのでしょうか?キリストの十字架上の死や、ホロコーストや、ムハンマドがメッカの迫害を逃れてメジナに移ったことと並ぶほど重要な宗教的なできごとに、ヒロシマはなりつつあるのでしょうか?もしそうなら、これこそトム・シェリングの言う「核兵器を使用しないという伝統」を永遠に保証する究極の手段ではありませんか?

 核兵器の発明をなかったことにはできません。ニュートンの法則や熱力学第二法則と同じように、永遠に人類の知識の一部であり続けます。核兵器を使用しない伝統を永遠に守りたいなら、非常に強力な永遠の禁忌にしなくてはなりません。十分に強力で長続きする禁忌というのは、その性質上、イスラムの断食の掟や、モーゼの十戒と同じく、宗教のように私には思えます。同様に、ヒロシマがもし宗教的な警告としての地位を手にしたら、核兵器を使用しないという伝統もまた宗教の力と性格をもった禁忌となり、その結果、永遠のものにならないでしょうか?

 私はこうした考えについて、よき友人であり同僚のビル・ポラードと話し合いました。彼は物理学の博士号を持ち、教会に叙任された聖公会の司祭でもあります。彼はミルチャ・エリアーデの著述に目を向けさせてくれました。歴史上のできごとは、どのようにして宗教的な重要性を持つようになるのか?エリアーデによれば、宗教的時間と世俗時間とがあります。世俗時間において起こったできごとは単なる歴史にとどまり、宗教的時間に起こったできごとは宗教的な重要性を持つようになるというのです。たとえ世俗時間において起こったできごとでも、ヒロシマのように想像を絶する苦痛を伴った非常に特異なできごとは、それ自体、宗教的瞬間を定義づけるものではないでしょうか?つまり、例のない恐ろしいできごとであるヒロシマは、最終的には人類の宗教的な伝統の一部となる資格があるのではないでしょうか?こうして、ヒロシマの神聖化が「ヒロシマは必要だったのか?」という私の長年の疑問に答えを出してくれたのです。私は今、ヒロシマは必要だったと思います。第二次世界大戦を終結させ、核兵器を使用しないという伝統を永続化させる、他に例のない恐ろしいできごとだったからです。今から百年、千年、あるいは1万年後の核兵器の宗教的な性質による拘束や禁忌は、1945年8月6日の恐ろしいできごとを出発点にすることになるでしょう。

 1945年8月9日のナガサキについては、私はそうは思いません。マクジョージ・バンディも、アメリカがヒロシマのわずか3日後にナガサキに原爆を投下したのは早すぎたのではないかという疑問を表明しています。日本人はすでに降伏の用意をしていました。バンディは、もしナガサキへの投下があと数日後に予定されていたら、もはや必要ではなかっただろう、としています。(訳注:実際には、更に3個目の原爆を8月20日頃に投下することになっていたが、終戦で使用されなかった。)

 なぜ、ヒロシマの後、あれほど急いでナガサキに投下したのでしょう?1963年に出版されたグローブス将軍(訳注:原爆開発の指揮官、当時は少将)の回顧録『今だから話そう』によれば、将軍とパーネル提督は「日本人が平静を取り戻す時間を与えないために、最初の投下に続いて2度目の投下を行う重要性について度々議論した。2度の投下が戦争を終わらせるだろうという意見を最初に述べたのはパーネルだった。」とのことです。しかし、私はグローブス将軍自身から、その決定を下したのは彼だ、ということを聞いています。私がそれを知っているのは、1960年代の初めに、オークリッジのユニオンカーバイド社の役員だったクラーク・センターと共に、ウォルドーフアストリアホテルのバーで、退役した彼と会ったことがあるからです。(このバーは昔のウェスタン風のサロンで、ウイスキーのボトルが一本、机に置いてあり、客はそれぞれグラスに自分のボトルから注ぎ、ウェイターはボトルがどれだけ空いたかで会計をしていました。)


 グローブスは酔っていて、昔の話をしてくれました。彼がナガサキについて言ったことを、私は決して忘れないでしょう。確かに、ナガサキはスティムソン国防長官とトルーマン大統領に(京都が投下目標から外された後で)承認された投下目標のリストに載っていたが、いつナガサキに投下するかは、全くグローブスに任されていた、というのです。彼がクラークと私に語ったのは、8月9日というナガサキへの投下の日付は、彼が一人で決定した、ということでした。


(訳注、広島平和公園内の「平和の鐘」
:高岡市の老子製作所で製作されたもの。
写真は広島市のHPより転載)


最後に:国際友好の鐘

 私の故郷のテネシー州オークリッジ市とヒロシマは、永遠に分かちがたい関係にあります。オークリッジは原爆「リトルボーイ」のウラン235が製造された場所であり、ヒロシマはそのリトルボーイによって破壊され、核戦争とはどのようなものかを世界に知らしめた場所だからです。2つの都市は現在、共に栄えています。勿論、ヒロシマはオークリッジの30倍は大きな都市ですが。

 1943年のオークリッジ市誕生から50年の記念式典の一つとして、オークリッジ地域財団は市の中心にヒロシマの梵鐘の複製を据えることを決定しました。私は国際友好の鐘委員会の委員長を務めました。私の主な役割は、この計画の遂行に必要な15万ドルを集める手助けをすることでした。

 オークリッジの市民、企業、かってマンハッタン計画に関わった人々、財団、アメリカと縁のある日本の企業、日本の市民から、必要な資金を集めました。4トンの重さのある鐘は今、オークリッジ市庁舎のホールに鎮座しています。

 私達の友好の鐘を、ヒロシマに対する不適切な―特に、真珠湾攻撃や、戦時中の中国における日本軍の残虐行為にかんがみて―謝罪とみなす人々からの反対にも遭いました。私が強く主張したいのは、私達の鐘は謝罪の手段ではなくて、オークリッジとヒロシマの結びつきを目に見えるようにしたもの、ということです。それ以上に、ヒロシマを神聖化することへの、ささやかだけれども明白な一歩です。元になったヒロシマの鐘と同じ会社によって作られたこの鐘は、マンハッタン計画の関係者も日本に対する「謝罪」への反対者も、すべて忘れ去られた後もずっと生き残るでしょうから。後に残るのはこのシンボルです。友好の鐘を巡礼として訪れることによって、ヒロシマを神聖化し、核兵器を使用しないという伝統が永遠に続くことを目指す多くの人々にとって、この鐘が神社となることを願っています。


(訳注:広島の梵鐘の3倍もあるこの大きな鐘は、1993年に京都の岩澤梵鐘鰍ナ製作され、オークリッジに運ばれた。しかし、在郷軍人らにより、日本への謝罪を表すものとして反対され、ワインバーグが自伝を書いた1994年には、市庁舎ホールに保管され、展示が出来ない状況であった(左下:彼の自伝より)。

彼は、梵鐘製作費の数分の一を寄付すると共に、委員長となって奔走し、1996年に市の公園に展示することができた(右下、同市HPより転載)。

なお、彼は「広島の平和の鐘と同じ会社で製作された」と書いているが、上記のように別会社である。



Trans-Science:トランス・サイエンス
(ワインバーグ自伝より)

Weinberg2003

ワインバーグ博士は、熔融塩炉などの液体燃料炉の発明者であり、70年前に軽水炉を発明しながらも、自身の教科書[Ref.1]で福島のような過酷事故を予測した天才でした。
しかし、彼の科学に関する最も偉大な貢献は、トランス・サイエンス概念の発明・発見でしょう。彼の自伝「The First Nuclear Era」にあるように、ORNL所長時代の最後の1972年に「科学とトランス・サイエンス」という10頁ほどの論文を発表しています[Ref.2]。

日本ではこの言葉は余り知られていないようですが、最近では、雑誌「世界」2014年6月号に、地震学者・石橋克彦氏が「地震の規模や確率の予測は、現代科学では答えることが(まだ)出来ない問題、つまりトランス・サイエンス問題である」と書いています。(「欠陥『規制基準』」が第二の原発震災を招く」(原文はここをクリック

一方、全世界を対象にインターネットで「Trans-science」と検索すると数億件の記事があります。例えば、米国の安全工学の権威ナンシー・レブソン教授の著書「セーフウェア:安全・安心なシステムとソフトウェアを目指して」の中で、2頁を割いて彼の主張を紹介しています。

人類初の月面着陸を成功させた科学万能と思われた時代に、科学を超えるものがあるという主張は、天才科学者ワインバーグならではと思わざるを得ません。自伝は、上記論文の抄訳なので、論旨が不十分かも知れませんが、以下に自伝の該当箇所の翻訳を載せておきます。そのうち、原論文も翻訳したいですね。

1960年代、リバモア国立研究所のジョン・ゴフマンやアーサー・タンプリンといった人々から、原子力は強い批判を浴びていました。低レベルの放射能が、原子力分野にいる私達が認めていたのよりも遥かに危険なものだという批判です。科学的に問題になっていたのは、放射線の閾値の存在でした。もし、閾値というものがあるなら、放射線レベルが閾値以下であれば無害で、閾値を超えれば有害です。高レベルの放射線にさらされれば、当然、死に至ります。

人間の場合、400レムの放射線を浴びると、約半数が死亡するでしょう(訳注:100レム=1シーベルト)。より低い線量でも、放射線はやはり有害です。特に、癌になるリスクは、被曝線量に概ね比例します。自然界での被曝線量(年に約100ミリレム)と大差ないような非常に少ない線量にも、被曝線量と生物学的リスクの比例関係はあるのでしょうか?そこまで線量が少なければ影響はとても小さく、従って、「そのような低レベルの放射線も悪い影響を与えるのか?」という問題は、科学的な問題ではないと考えられます。科学では答えられないからです。

そこで科学の代わりに、私はトランス・サイエンスという言葉を提案しました。正確に言えば、トランス・サイエンス問題とは、科学的に考えることのできるが、科学では答えられない類の問題と同じ形の(同じ構造の)問題だと定義したのです。そうすると、こういうことになります。「400レムの放射能が多数の人に与える影響はどれ位か?」という問題には、科学で答えることができます(半数の人が死に至るでしょう)。一方、同じ形の問題である「400マイクロレムの影響はどのようなものか?」は、仮に影響があったとしても測定できないほど僅かなため、科学では答えることができません。

社会と技術が接する領域で増えている論争の多くは、科学では全く答えられない、つまり科学的というよりトランス・サイエンス的なものだと私は気がつきました。例えば、環境中の低レベルの化学物質に対して私たちが抱く恐怖は、有毒な化学物質の原子はたとえ1個でも有害である、という憶測のせいです。この憶測が形になったのが、どんなに僅かでも発癌物質が含まれていれば、その加工食品を禁止するという、悪名高い純正食品法のデレーニー修正条項です。

話を戻しますが、エド・シルス(訳注:社会学者でミネルバ誌の創設者)は、私の見解に賛成で、ミネルバ誌の1972年4月号に私の論文「科学とトランス・サイエンス」を掲載しました[1]。この論文が初出で、トランス・サイエンスという言葉は専門用語として通用するようになっていきました。私はその後1992年に「原子核反応:科学とトランス・サイエンス」という題の論文集を出版しました[Ref.3]。

哲学的な概念の本質をとらえたトランス・サイエンスという言葉の誕生は、私の見解にとって大事なことで、その生みの親であることを私は誇りにしてきました。しかし、問題をトランス・サイエンスとして考えることは、許容できる放射線レベル、残留農薬量や石綿量を決める規制当局にとって、実際には殆ど助けになりません。規制基準を決める際の常識的な方法としては、規制されるべき潜在危険と、日常生活における他の潜在危険とを比較することでした。アメリカでは年間に約10万人が様々な事故で亡くなっています。.原子炉は許容されるべきではないのでしょうか?致命的な事故が起こる確率は10万年に一度以下で、同じように電力を生産する水力発電ダムのリスクよりずっと小さいのに?

原子炉事故に対しては、事故確率を推定できます。科学的な、少なくとも科学的な要素を含んだ問題だからです。しかし、非常に低レベルの放射線量を無視することは、トランス・サイエンスの問題で、科学を超えたものです。自伝の第10章で述べたように、そうした場合、ホービー・アドラーと私は、その被曝を(計算できないリスクではないとしても)、自然界での被曝線量と比較すべきと述べてきました。被曝線量の基準は、アメリカでの自然界での被曝線量の標準偏差値である年間20ミリレムという値以下に設定すべきです。こうした僅かな被曝の影響は全く検出できませんし、無視すべきと私達は考えています。実際、私達がそう提案した数年後、原子力委員会は原子炉外での一般市民の被曝許容量を、年に約5ミリレムに引き下げました。

トランス・サイエンスの哲学的な概念と、規制基準を決めるに当たっての実際問題との関連について、私は1985年に論文「科学とその限界:規制当局のジレンマ」を書き、その中で次のように主張しました[Ref.4]。リスクについて議論している全ての人が、そうした問題が科学の判断力を超えるものだと進んで認めるならば、規制当局の仕事は、単純化されないにしても、明確になるでしょう、と。


[Ref.1] Alvin M. Weinberg他「Physical Theory of Neutron Chain Reactors」1958年出版の中の一文:「軽水炉で冷却が出来ないと、燃料が破損し、プラント全体が放射能汚染され、修復は極めて困難になる]

[Ref.2] Alvin M. Weinberg, “Science and Trans-science”, Minerva, Vol.10, 1972(原論文,ここをクリック)

[Ref/3] Alvin M. Weinberg, “Nuclear Reactions: Science and Trans-Science”, Amer Inst of Physics; 1992

[Ref.4]
Alvin M. Weinberg, “The Regulator’s Dilemma”, Science and Technology, Vol.2, 1985(ここをクリックすれば、当該号の全記事PDFを無料でダウンロードできるボタンがあります。1番目の論文です)



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