5.国内外のこれまでの研究動向

 この技術の基礎は、大戦直後(1947年頃)から米国オークリッジ国立研(ORNL)の科学者達が中心になって育てたものです。1954年の熔融塩燃料予備試験炉ARE[860℃で十日間]の運転成功を含め、1958年には最初の総合報告書が公開されました。
 その後ORNLは、本格的な熔融塩実験炉"MSRE"の建設運転に成功し[1965-69年]、熔融塩増殖発電炉"MSBR"の概念設計の完成[1971年]など輝かしい成果を挙げ、熔融塩炉技術の確固たる基盤を完成させました。だが、ようやく高まった核拡散防止上の政治配慮から「当面全ての増殖炉開発は見合わせ」との政策が発動され、MSBR計画も1976年で中断されました。全く政治的理由からです。
 その間、その優れた単純性・安全性・増殖性・経済性が世界に広く知られ、以下に示すような地道な努力が諸国で進められて来ました。。国名を順不同で列記すると、米・仏・印・英・西独・日本・ソ連・ポーランド・スイス・ベルギー・ブラジル・アルゼンチンなどで、さらに中国・韓国・トルコ・ベネズエラ・インドネシアに拡がった。

◆米国のその後:
 MSBRの成果は、1970年代初期にはそれより数十倍の予算を投入した高速炉FBR勢力を大いに揺るがした。しかしまだU−Pu 燃料サイクルへの執着やPuへの軍事的関心ともからみ、FBR推進の大勢は変えられなかった。その後、LLNL(Lawrence Livermore N.L.)で Dr.R.Moirが、レーザー慣性核融合炉の設計研究に熔融塩ブランケット方式を採用しており、同構想を持っていた私達も助言した。 また、MITの M.W.Golay教授が熔融塩炉の設計研究を行っており、LLNL、 Rensselaer Politec.Inst.などより FUJIの検討を行いたいとの提案があった。なお、ORNL及びそのO.B.は多大な助力・助言を示したし、今後の協力を約束してくれている。彼等の指導者は、元所長 Dr.Alvin Weinberg, 故Prof.H.G.MacPhertson, 故Dr.W.R.Grimes,故Dr. E.S.Bettis, などである。

◆国内における経過:
 古川は「日米協同のMSBR開発」を産・官・学界に呼びかけ始め 、また日本原子力学会で斉藤信房・武田栄一先生のお世話によりMSBR研究専門委員会を組織し、研究者層の充実拡大に努めました。しかし、皆が理想とする"増殖発電炉"構想は「21世紀世界には役立たない幻想」という事に気づき、AMSBに基づく新しい「トリウム熔融塩核燃料増殖サイクル・システム」 の完成を提案(1980)しました。西堀先生の斡旋で、井深太氏、茅誠司先生、伏見康治先生、西川正治先生、武田・斉藤・石野先生その他のご賛同をえて、まず「トリウム学術委員会(茅先生会長)」の財団化を目指し(1981年)、また自民党は超派閥百名の「トリウム研究促進議員懇話会(二階堂会長)」を作りました。東海大学(1983-96年)に移籍してからは、FUJI設計研究さらにTHORIMS−NES構想を纏めつつ、主として海外(特に 仏・米・ソ連など)との連携をはかりました。

◆フランスと乾式再処理・熔融塩炉:
 高速炉燃料の弗素化および熔融弗化物化学処理法の研究がCEA(原子力庁)およびPechiney社で進められ、その後ソ連に引継がれました。1973〜83年の10年間、EdF(電力庁)中心に年間約2億円約30名によるMSBR開発研究が実施されました。

◆カナダと加速器増殖:
 核エネルギー開発の卓越した指導者Dr.W.B.Lewisは、1950年代始めに核分裂増殖発電炉概念を否定し、増殖能の良いCANDU重水炉に加速器増殖炉を組合せて燃料増殖サイクルを完成させると宣言し、その加速器増殖炉の物理的基礎確立に成功しました(Chalk River N.L.)。

◆CERN・伊・仏・スペイン・EUなどの動向:
 その13年後の1993年11月、CERN(欧州高エネルギー研)所長ノーベル賞受賞者Carlo Rubbiaが、古川と同じキーワード(トリウム・加速器・熔融塩)で類似の構想を提案しました。これは世間の関心を高めるのに役立ったと云えます。この未臨界炉を安全だからと発電所として提案し国際共同を進めていますが、連続運転困難な加速器を持った原発(公共的施設)などは考えにくいでしょう。私達のAMSB構想は生産装置であり、一方の原発FUJIは、充分に安全・単純かつ経済的原発です。

◆ソ連およびロシア:
 熔融塩技術の強大な学術・産業基盤があります。炉関連でも、Kurchatov研中心に活発な研究がなされた。Dr.V.N.Novikovは核融合・分裂ハイブリツド炉への熔融弗化物利用から次第にMSBRに関心を移し、1983年には古川のAMSB論文を露語全訳し、科学アカデミー総裁Dr.Alexandrov了解の下に共同開発を提案してきました。その後 、Dr.V.A.Legasovが彼と共にMSR建設許可を得たが、直後のChernobyl事故でその対応を命じられ、2年後に自殺し挫折しました(1988)。同じ頃 Dr.V.N.Prusakov等の提案で高速炉燃料の弗素化乾式再処理装置開発が、仏・チェコの協力をえてDemitrovgradのRIAR(Res.Inst.Atomic Reactors)で進められました。この FREGATE−U装置が60%以上完成した所で、ソ連崩壊に向かったのです。この技術によれば、既存原発の使用済み燃料から熔融塩炉用のPu含有弗化物燃料塩を容易単純に準備できます。彼らは協力を約しています。

◆べラルース:
 科学アカデミー所属のSOSNY Sci.CenterのDr.S.Chigrinovは、AMSB炉心設計研究特にPu利用消滅への応用に多大の協力をしてくれ、また、理論改善のための中性子照射実験計画も進めています。

◆日・米・ロシア共同開発の準備推進:
 1996年6月よりロシアITPから協力提案を受け、日・米・露三国共同計画をまとめています。1997年4月には国際専門家会議(日・米・露・べラルース・仏・印・トルコ及びIAEAより24名参加、米RAND本部で、計画案の包括的討議を行い「総括及び提言書」をまとめました。 7月にはITPで技術会議を持ち、miniFUJIの敷地をITPの公開地区内に選定し、Snezhinsk市長も支持を約しています。1998年3月には露政府がMSR研究を承認しました。

◆米国の近況:
 1992年のBush大統領科学技術補佐官 Dr.Allan Bromleyに続き、1997年8月にはClinton大統領科学技術補佐官 Dr.John H.Gibbonsを訪問し、深い理解をえ、「ORNLとの協力にも問題はない。」とのことでした。9月末には、米政府が私達と基本的に同方向の新しい核エネルギー開発長期計画(Dr.Gibbons担当)を発表したのは心強いことです。経済・安全・廃棄物・核拡散の改善に優れた炉構想や小型炉原発の開発を推奨しています。副大統領 Mr.Al Goreも、私達の構想に良い理解を示していました。
 最近、米政府の革新原発開発計画GIF(Generation IV Internat. Forum)が選んだ6炉型中に、熔融塩炉も採用されました。ORNLの他、LLNLが一層協力的で,彼らとの共同研究を進めています。
 さらに重要なのは、OECD(経済協力開発機構)内の国際エネルギー機関IEA(Int.Ene.Agency)と、原子力エネルギー機関NEA(Nucl.Ene.Agency)、およびIAEA(国際原子力機関)との異例の「共同調査研究」:Three Agency Study(TAS)『次世代用原発の研究開発』が数年がかりで進められ、2002年秋に公表されましたが、そこでは私達の「FUJI」を含む12炉型が、国際共同開発に推薦されました。
 このTAS作業結果をさらに推進させるIAEA次期計画"INPRO"(革新的原発・核燃料サイクル開発)への協力を、副事務総長Dr.Mourogovより要請されています。


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